すきなものこと

好きを模索して謳歌する

命令形の成長に疲れました

背が伸びて成長した、植物の成長日記、成長すると蛹が蝶になる。
そんな見た目でわかるものが成長であるまではよかったのです。

出来なかったことが出来るようになること、その時の考える内容によって言われる言葉だとわかってからは、私は死ねと言われるのと同じかそれ以上に嫌いになりました。

自然に起こる現象だったものが、気がつけば「成長しろ」という命令形をつける言葉になっていたのです。

自然と起こる変化を受け入れる言葉が、常に成長をしていなくてはいけないという圧力を持つようになりました。
そして「成長の定義」というのは非常に不安定なもので、相手によっては表にも裏にも変わってしまう。

例「上司の愚痴を止めるなんて成長した」
例「上司の愚痴を大人しく聞けるなんて成長した」

成長という言葉を頻繁に使う人は、食べ物になんでもマヨネーズかけるマヨネーズのごとく、昔ネットで流行っていた「それもアイカツだね」のごとく成長を至るところで使います。

「成長しろ」「成長できないのか」「そんなんだから成長しない」

命令形や否定形は「今のお前は駄目だ」と意味を、肯定形でさえも成長という言葉に「今までのお前は駄目だった」という意図を感じるようになりました。

肥料をたくさんあげたら思い通りに木はリンゴを実らせるわけはありません。それはみかんであったり梨であるのかもしれないし、花を咲かせる役目の木なのかもしれません。

しかしこの成長という言葉を使う人は、その木からしたら順調に育っていたはずが枝の伸びる方向が違うというだけで枝をバッサリ切られてしまうわけです。

盆栽のプロだと自分のことを勘違いしている人たちは、「成長」という言葉の枝切りばさみをいつも持っています。
自分の理想の「成長」のためならこのくらい当たり前、むしろ感謝欲しい。

これが成長という言葉の加害性です。あー、癒やされたいですね。